「今こそ教育勅語が必要か?」

「今こそ教育勅語が必要か?」

道徳が腐敗した現代だけに教育勅語の必要性を感じる。そういう意味では、高須委員長の主張には一部同意する。

現在、道徳の授業は、関西では同和(被差別部落)を過剰に優遇する道具となり果て、関東では在日韓国人との宥和ないし贖罪する科目に成り果てている。また、日教組教育と自虐史観と同和行政と個人主義により、公共性や地域共同体が、解体されつつある今日に道徳が必要なことは言うまでもない。
こうした背景から10年前にNHKハーバード大学教授で、正義論で世界を席巻したロールズを破ったマイケルサンデルの白熱教室が過熱した。これも正義と道徳、倫理は普遍的な疑問を内包しているからだ。

さて、教育勅語に話を戻す。教育勅語は、教科書で廃止され軍国主義の一貫とあるが、大学院生の頃に竹田恒泰氏の京都竹田研究会で、実際の勅語を読んで読解を聴き教科書が大嘘だと再認識した。
当時の近代化したばかりの日本には、模範が必要で、儒教ないし朱子学的な道徳を明治天皇が発した御言葉が、教育勅語である。
その内容は、親を大切にして、勤勉に励み、生活が豊かになれば、豊かになった経験を活かして議員になり国の為に役立ってくれという内容である。この内容の何処が軍国主義なのか自分には、さっぱり分からないし、当時の日本で近代化後の変遷で如何に普通選挙を開くまでが困難かを感じさせる内容である。
しかも、教科書にある廃止は大嘘で、そもそも明治天皇の御言葉なので、法律形式を踏んでおらず、法律でもない教育勅語を廃止など不可能である。なので、現在でも脈々と教育勅語は受け継がれており、教育勅語が廃止されたのならば地球上から教育勅語は消えているが、こうして観念と存在していることからも教育勅語は「廃止」できなかったようである。

ただ、大日本帝国憲法教育勅語を起草した官僚の井上毅は、この教育勅語朱子学の側面が支那儒教であり宗教の側面である危険性を抱いていた。
しかも、これは日清日露と近代化して戦う近代化した日本人の徳育として重要であるが、明治末期には時代遅れの産物となり、西園寺公望が新たな教育勅語明治天皇に求めて明治天皇も裁可したが、崩御で実現しなかったのである。

道徳が、同和と朝鮮優遇に使われて腐敗した今日では、教育勅語は有益だろう。しかし、同時に、明治末期には時代遅れの産物になっていた事実は無視できないだろう。

そうした事実を踏まえて、教育勅語をどう用いるかが、我々にとって重要であろう。

 

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